COLUMN

入院生活について

毎日ではありませんが、こうして個人ブログを書くようになってから5回目の投稿です。

やってみてわかったことは、今のところは振り返ったり、自分の思いや考えをまとめるツールとしてはなかなかプラスな面も多いということです。

普段こういう時間をなかなか持てない、もしくは意識してあまり作らない生活を続けていましたから、これはこれですごく新鮮です。

入院中も仕事をしているように、「やること」や、「やらなくてはいけないこと」はたくさんありますが、私の場合、別に仕事に追われているわけではなく、自分で決めた「やること」なので、そこまで苦ではありません。

面倒くさいと思うことはありますけどね。

もっといえば、体調を壊し、入院するほど体を酷使していますが(笑)そこまでハードに働いているわけでもないと思います・・・たぶん(ボソ)

私みたいな働き方をしていると、体調を壊し入院することもあるということで、私を反面教師にしてあまり無理して仕事をしないようにしてください。

入院生活について

入院すると、「何かと振り返る時間が取れていい」と言われたことがありますが、いやいや、私の場合だけかもしれませんが、そんなことはまったくありませんよ。

今回初めて入院してみたのですが(別に入院したくて入院したわけではありません。医師の判断による強制入院です)、どうやら入院って、ただベッドに寝ているだけじゃないようです。

結構スケジュールがびっしり組まれていることに驚いています。入院患者って意外に忙しいんだと、考えを改めました。

例えば、今日の私のスケジュールは、朝6時に起床し、起きて5分後に血を抜かれ(笑)、ぼーっとしていると朝飯が運び込まれ、食べたら心電図とレントゲンを撮り、昼食、少ししてからMRI、帰ってくると面会があって、すぐに夕食、その後、多少の時間がもてますが、検温やら、血圧測定やら、不規則で入ってきます。

恐ろしいことにその後、夜9時には就寝な訳ですから、考えてみればある意味は充実した一日であり、適度に予定が積め込まれた一日となります。

また、検温と血圧測定や面会、その他諸々の確認で不定期に病室に人が入ってきますので、ゆっくりと物思いに耽る時間が思ったほどないのが現実。

どうやら、思い描いていた入院生活とは大きく異なるようです。

夜九時からは、私のお仕事タイムな訳ですが、夜中でも不定期で看護師さんが入ってくるので、迷惑にならないように、遠慮がちにパシャパシャと叩いています(その度に作業は止まります(笑))。

昨日はこんな感じで1時過ぎまで仕事をしまして、眠りについたのは夜中の2時過ぎだと思います。

朝6時に強制的に起こされ、起きて5分後に血を抜かれるわけですから、ある意味、入院している方がハードな面もあるかもしれません(笑)

入院生活ってハードだなぁ・・・、普段の生活の方がよっぽどいいなぁ・・・というと、お前だけだろ!と言う言葉がきこえてきそうですね。

私の場合は楽しんで仕事をしているので、いいとしましょう。

今日、担当医とお話をし、退院が明日になりました。

今までのペースを取り戻すのには時間がかかるし、それまではペース配分を気をつける必要もあるでしょうが、やるべきことをやり、進むべき道を進むだけですので、まわりに左右されずまっすぐに歩いていこうと思います。

今日は短いですがこの辺で。

入院してしまいました。

なんと私、入院してしまいました。

今も入院中で、入院先の病院の一室でこれを書いています。

我ながら少し無理をしすぎたかなと思っています。精神的には大丈夫なように見えて、肉体的には徐々に疲れが蓄積していきダメージが大きかったのかもしれません。

特に頭痛が激しく、立っていられないほどで、病院の先生曰く、よくこの症状でここまで来れたねと言われてしまいました。

もちろん妻の助けがあってこそでしたが、立つのもママならない状況で、病院内(大学病院なので広いです)を歩いて診察室まで行くのは、なかなかすごいことらしいです。

その後、診察室に入るなり、その場で寝かされ、移動は車いすになり、幾つか検査を受け、その場で即入院が決まりました。

奇しくも、前々回の「仕事とは何か」の記事で書いた記事を否定するような形になってしまいました。

つまり、私のようなスタイルで仕事をしている場合、オンとオフの区切りがないわけですが、「自由」とは「責任」と書いた通り、私のような形で仕事をしていると、時に体を壊し入院することにもなるというリスクを孕んでいるということです(笑)

その後も、検査を受けましたが、幸い大事には至らず、予想されていた病名になることはなく、それがせめてもの救いでしょう。

別に病院の病室で仕事なんてしなくてもいいのに・・・せっかくの休暇を神様がくれたと思ってゆっくりしていれば良いのに・・・と思われるかもしれませんが、なんだか落ち着かないんですよね。仕事をしていないと。

ワーカーホリックと言われてしまえば、それまでなんでしょうけど、前にも言ったように私の場合は仕事と私生活の境界線が非常に曖昧で、仕事を仕事ととらえておらず、おそらく仕事が生活の一部になってしまっているのでこのような自体になるのでしょうね。

また、仕事をほとんどクラウド化してしまっているため、基本的に私がいる場所自体がオフィス(インターネットが繋がっていればOK)になるので、こんなことが起こってしまいます。

もちろんこれには便利な面もあれば、マイナスな面もあります。

ちなみにこれを書いているのは、病室のベッドの上で時間で言えば午前0時半です。

消灯が21時で、起床が朝6時ですから、ここまでくると、我ながら頭がおかしいんじゃないかと思ったりします。

こんな働き方は、会社員時代には絶対にあり得なかったし、逆に「よし!入院だ!仕事休める!」くらいに思っていたかもしれません(笑)

それが、今ではこれですからね。

人は「自由」という名の「責任」を持つと変わるものです。

こんな思いまでして、なんで仕事をしているんだろうと考えてみましたが、いろんな言葉が頭をよぎります。今、いろんな言葉が頭をよぎりましたが、大前提にあるのはやっぱり仕事が好きってことなんですよね。

矛盾しているようですが、好きか嫌いかと言われるとわからない時もあるのですが、やっぱり支えとなっているのは、「仕事が好き」という感情なんだと思います。

なんで仕事が好きか嫌いかわからない時もあるのかと言えば、それは、何度も言うように私にとって仕事は生活の一部だからです。

好きとか嫌いとか以前に、それをやっていないと落ち着かない、もしくは不自然なものなんですね。

だから仕事をしていないと、落ち着かないし、何もしていないでボーっとしていると逆にそれがストレスになってしまうんです。

もちろん、そう言う時間も大切だなと思うのですが、今の私の場合はやるときはやって、休む時はとことん休むというライフスタイルの方が性に合っているんだと思います。

「今の私の場合」と言ったように、緩い感じで延々と続けて行く時もあります。

つまり仕事をある程度自分でコントロールしています。

もちろん、以前もいいましたが、私にだって仕事が面倒くさい時や、気が乗らないとき、やりたくない時はあります。

人間ですからそれは仕方のないことです。

環境のせいにするなの言葉としての違和感

「環境のせいにするな」とは、会社員時代に、直接的じゃないにしても間接的に良く言われていたものです。

要するに「環境のせいにするな」とは、自分が力が発揮できない理由を周りのせいにしてはいけないよという意味なのですが、私はかねてからこの言葉に疑問を思っています。

「いやいや、そうはいっても環境も大事ですよ」と私は思っています。

今回はメディアに触れて、少し疑問に思ったので、「環境のせいにするな」の考えについて少しお話ししていこうと思います。

「環境のせいにするな」という言葉の違和感

私は、この「環境のせいにするな」という言葉をきいたとき、一方では、「そうだよな」と解釈することもあれば、「そうじゃないよな」と解釈することもあります。

なんというか、状況などを深く考えずに「環境のせいにするな」という言葉を使っている人を見ると、痛々しく思えることがあります。ただ、なんでも一括りにまとめて「環境のせいにするな」というのは、やはり適切ではないと思うのです。

そもそも多くの場面で言われる「環境のせいにするな」とは所詮、非常に少数派である強者の論理であり、そこに弱者の意見は反映されていません。

仕事に限って言えば、上手く行く人、もしくは上手くいった人というのは、全体からみればほんのわずかな数であり、確率的に見れば非常に少数派のはずです。

そこには、偶然が重なり運良く大成できた人や、全体の流れや波にたまたま乗ったことで、偶然上手く行った人も含まれます。要するに確率論の問題であり、全体からみればごく一部の人の意見です。

その中でも、私が一番残念に思うのは、本当に、ただ運がよくて偶然上手く行った人の意見です。もちろん何かを成し遂げるには「偶然」や「運」の要素が大きいということは、否定することは出来ませんが、なかには、どう考えてもたまたま上手く行ったひとが存在します。

本当に、たまたま時代が味方しただけだったり、ただ通り道に立っていて、たまたま偶然が流れ込んできただけだったり、偶然の種類は様々ですが、共通して言えることは、自分から掴みにいった偶然ではなく、本当にたまたま行き当たった偶然だということです。

面白いことに、多くのメディアでは、そういう方を、よりもてはやす傾向があります。

なぜなら「稀」だからです。そして不思議なことに希少な意見ほど強い影響力をもちます。

そうした、少数派の意見というのはマスコミから見れば非常に希少価値が高いため、それを全体の枠に媒体などのメディアを通して私たちに触れるように、無理矢理投下されます。

そして、上手く行っている人、もしくは上手くいった人というのは、何かしらの「共通体験」をしているため、自身の経験と勝手にそれに結びつけて、「この人の言っていることはごもっともだ」という風に解釈します。

そのように、意見がどんどん同調し、やがてはそれが真理であるかのような流れになっていきます。

単純に「環境のせいにするな」という意見にすることに否定的な私自身も、なんとなく共通項をみつけ、「そうだよな」と、頷くこともありますからその影響力は絶大です。

ただ、ふと冷静になって考えてみると、多くの場合、言っていることはもっともだけれども、いささか単純化しすぎたり、一括りにしすぎたりしていないかと思ったりします。

私たちはメディアは常に本当のことを言っていると思いがちですが、メディアは真実を伝えているように見えて実は事実を歪曲して伝えています。

例えば番組を制作しているテレビ局の方に話を伺ったことがあるのですが、ドキュメンタリー番組を制作するにあたって、面白くする為に、基本的には、わざと困難を描き、提示された困難に対して悩みもがき立ち向かっている姿をみせ、最後には困難に打ち勝つ、または困難から何かを得て、さらに高みに望んでいくという構成をされるそうです。

もちろん事実を淡々と描くよりも、この方がストーリー展開として引きつけるものがありますし、視聴者からすれば面白くなります。結果的に面白ければ、数字を取ることに繋がりますから、そのように番組が展開されます。

もっと言えば数多くの伝記などもこのような手法がとられています。映画でもドラマでもそうですよね。

そして、さらに複雑にしているのが、困難というのは誰もが持っている共通体験であり、それを見ている視聴者は、困難に立ち向かっている人に無理矢理自分を重ね合わせます。物語の主人公と共通体験を持ち、共感をすることで、自分をそこに投影するわけですからだから、自然に引き込まれ面白くなっていくのです。

わかりやすくシンプルな言葉というのは、非常に心にずしんと来るものがあり、そこから勝手に何かを連想し、自分の体験と結びつけ、共感し、やがてそれが真理となっていき、やっぱり上手く言っている人だったり、成功者の言うことは違うよな・・・となっていきます。

ですが、そこにはやはり無理があるよな・・・と思うのです。

環境の影響は生物に多大なる影響を与える真理

例えば、生物全般に言えると思うのですが、自然界には環境によって育つ生物と育たない生物が存在します。草木をみればそれは明らかだし、人間以外の動物をみても環境に適応できないものは、やがて死に絶えていきます。

人間だけが違うというのはいささか傲慢な意見であり、やはりものごとの本質をあらわしていないと思うのです。もちろん人間は他の生物と違って、頭を使うことによって変革を起こしたり、気に入らなかったら場所を移動することも出来ます。

ですが、多くの場合で使われる「環境のせいにするな」とは、「今ある環境の中で」ということを前提として使われていると思います。

そこで私は思うのです。ビジネスでもそうですが、環境(市場)が悪ければどんなに頑張っても成果を掴むことが出来ませんよと。

そもそも「今ある環境の中で」の時点でこの論理は、破綻していると思います。

ここまで言っておいて、では、なぜ「環境のせいにするな」という言葉にひとすじの理解を示しているのかというと、一方で人を統率する為にはそうした、単純化した影響力の強い言葉が必要な時もあるからです。

人間を含め、生物は多種多様ですから、組織の中で生きていくには、何かしらの画一性が求められます。同じ方向を向いていないと本来の力が発揮できないことがあります。だから、組織を統率する上で、鼓舞する為にはそう言う言葉が必要な時もあるのです。

また「環境のせいにするな」ということで、自分の行いを振り返ることも出来ます。本当に自分のやっていること、やってきたことは正しかったのかなど振り返ることに繋がるからです。

全てが全て「環境のせいにするな」に、あてはまるわけではありませんが、やっぱりこの言葉が大事だと思うこともあるのです。

ただし私が思うに、この言葉を使っていいのは、きちんとこの言葉の背景を知り、意味を理解している人だけだと思います。

皆一様に、「環境のせいにしては行けない」という言葉を使っている「今の環境」には、やはり違和感しか残りません。