COLUMN

今、鬱のあなたへ

残念なことに、病気などで思うように働けなくなってしまった人がいます。

私も過去、鬱とは診断されていませんが、企業で働く事が息苦しく、他人の目が気になっていた時期があります。

いや、病院にかかれば確実に鬱だと判断されていたかもしれません。なにせ、朝起きて起き上がることもできませんでしたから。

私は、自己を正当化するつもりはありませんが、当時勤めていた企業の上司からのパワハラに合い、慣れない仕事のプレッシャーで、一時期仕事ができなくなってしまった時期があります。

10年以上前の話になりますが、働くどころか、当時は生きていくだけで精一杯という状態でした。

孤独を感じ、焦りを感じ、イライラを募らせ、ものにあたり、あたり蹴散らしていました。

また、突然涙が流れてきたり、何かをしなければならないという焦りはあるものの、何もやる気が起きず、1日中眠ることしかできませんでした。

どのような言葉で表現したらいいのかわかりませんが、生きる気力をなくし、どうしようもない、深い霧の中でもがき苦しんでいたといったらよいでしょうか。

今思うと、非常に鬱の症状に近い状態だったと記憶しています。

働く事ができず、毎日の生活もままならない状態

鬱といっても様々な症状があり、軽度のものもあれば、重度な症状まで様々だと言います。

私がどれくらいの症状だったのかは、病院にかかっていないため、今となっては判断する事ができませんが、生きる活力も湧いてこず、かといって死ぬこともできず、ただ日々を生きながらえるためにある命といった症状でした。

普段、見ている世界が違っているものに見え、少し黒ずんで、それでいて黄色がかっていて、生きていてよいのだろうか、でも死ぬこともできない、私の人生はこの瞬間に終わったのだ・・・と、ひとり孤独の中をさまよい歩いていました。

感情の起伏が激しく、体の調子のいい時に外に繰り出してみるものの、人の目が怖く、常に萎縮していました。

普段できていたこともできなくなり、昼間に外に出ているというだけで、世間の目が気になり、働いていないというだけで、こんなにも息苦しい世の中なんだなと感じていた事があります。

やっとの思いでコンビニで買い物をするものの、単なる買い物でさえ店員の目を見ることさえできず、財布を持つ手が震え、必死の思いで言葉を発すると、額から気持ち悪い汗がにじみ出てきて、呼吸が苦しくなりました。

「あの人は何をしているひとなの?」
「あんなに若いのに、昼間からぶらぶらしていて」
「ぶらぶらしていないで働け」
「みんな嫌な事があっても一生懸命働いているんだよ」
「甘ったるいこと言ってんじゃないよ」
「そんなの気持ちの問題でしょ」

周りからそんな風に思われているような気がして、毎日をひとり孤独に過ごしていました。

活動時間は夜

そんな状態でしたから、ほとんどの場合は、出歩くのは夜。また活動時間も夜。活動といっても何もやる気が起きませんでしたから、ただぼーっと起きているだけといったらよいでしょうか。

テレビをつけても頭に入ってきませんでしたし、本を読んでも活字を読むのを途中でやめてしまったり、布団の上でただぼーっと過ごしている状態です。

ただ唯一の救いは、私には「書きたい」という思いがあったことでした。一人パソコンに向かい、ただひたすら今の気持ちを、書き留めていました。

書くことで、気持ちが少しだけ楽になり、読み返すことで、自分の気持ちを再確認していました。いい文章が書けた時は、そんな状態でありながらも、嬉しく、気持ちが高揚しました。

そうは言っても、長い文章は書く事ができませんでしたから、詩のような短い文章で気持ちを乗せ、辛い思いを吐き出していました。

私には小説家のように綺麗な文章を書くことはできません。またコピーライターのように人に訴えかけるコピーを書くこともできません。

当時の私にあったのは、ただ、自分の感情を文章にのせる力だけでした。

当時の文章を読み返して見ると、今よりもずっと雑で、刺々しく、でもそれでいて、感情に訴えかけてくる何かがあります。今の私に同じような文章が書けるかと言われれば、おそらくもう書くことはできないでしょう。

感情で書くという行為は一過性のものに過ぎないからです。

もちろん見せるように書くことはできますが、そのように書いて見ても、不思議なことに当時のように訴えかける何かには欠けている気がします。

文章には命が宿ると言いますが、「言い得て妙」だと思います。

一通り思いを描き切った後、少しだけ気持ちが楽になりましたが、減りゆく預金残高に恐怖を覚えていたこともあります。

ひとり計算し、後どれくらい働かないでいる事ができるだろうと、計算していたこともあります。

そんな中でも、少しずつ、少しずつ社会に自分を慣らしていき、普通の人が普通にできる事でさえも歯を食いしばりながら必死にし、もがいていきました。

私は人のせいにするのは悪いことだとは思いません。それが過度に行き過ぎると問題が生じてきますが、人のせいにするということはある種、人間の防衛本能だと思うからです。

世の中には本当にたくさんの人がいます。

やたらと人のことを誹謗中傷する人もいれば、否定することしかできない人がいたり、残念なことにそれに気がついていない人もいます。

幸いなことに私は周囲の力もあって、少しずつ社会に自分をならせ、社会復帰を果たし、当時では考えられないくらいに元気になりました。

結婚をし、親になり、起業もし仲間も増え、当時では考えられないくらいに毎日を楽しく生きています。

もちろん相変わらず辛いこともたくさんありますが、元気で過ごす事ができています。

鬱の前後で気持ちの変化はあったのか

病気の前後で見ている世界が変わったのかと言われれば、間違いなく変わったのではないかと思います。

周りへの理解や配慮、物事の見方はもちろんですが、もっと表面的なことではなく、深い感情の部分で変わったと思います。

細かいことはわかりませんが、脳に伝達する物質に変化があったのかと思うときもあります。

当時の自分に声をかけてあげる事ができるのなら、この先も苦しいことはあるけれど、一歩ずつ進んでいけるから大丈夫と優しく声をかけてあげると思います。

そして「乗り越えなくてもいい壁はあるんだよ」というでしょう。

「乗り越えようと焦る必要はない。言葉は言葉にすぎないから、だから焦らず今を生きて」

というと思います。

人は、壁は乗り越えなくてはならないと強制的に思い込ませている節があります。

でも考えて見てください。

壁を乗り越えなくても時間がかかろうと壁を周って行けば壁をやり過ごす方法もあるかもしれません。理屈っぽい言い方かもしれませんが、逃げではありません。方法論の問題です。

勝てない相手にわざわざ立ち向かう必要はないのです。

兎にも角にも、そうした言葉に惑わされない事が大事だと私は思います。

長期的なスパンで考える

今、コワーキングスペースに来ています。

コワーキングスペースとは、スペースを共有しながら各自、打ち合わせや仕事を独立した形で行なう場所のことをいいますが、見渡す限りでは様々な方がいらっしゃいます。

例えば、私のように仕事をするだけではなく、勉強をする為にも使われているようですし、人によって使い方は本当に様々あるようです。

ものすごい静かだというわけではなく、適度に人の声がきこえるので、一般的な自習室のような静かさはないです。この空間を快適かどうか感じるのは、個々によって差があると思いますが、今日の気分で言えば私的にはありのスペースだと感じています。

▼長期的なスパンで見ることの大切さ

私のような仕事をしていると、如何に長期的なスパンで物事をとらえる事が出来るのかがひとつの大事な焦点となります。

つまり、細かい動きや、細かい流れに左右されずに、俯瞰レベルをあげて、もっと全体としての大きな枠組みでとらえるということです。

細かい動きや流れの変化というのは、頻繁に訪れます。いちいちそれに対応していたら、時間がいくら合っても足りないし、物事を前へ進める事は出来ません。

ですから、その細かな流れも含めて、全体の大きな枠組みとして考える事が、非常に大事だと思います。

私自身も、最近は特に細かい変化の流れが頻繁に起きていますが、こういう時は細かい変化に振り回される事なく、全体を見るように意識しています。

つまり、私はそのビジネスで何を成し遂げようとしているのかということを常に意識しています。

例えば、私はWEBメディアを運営していますから、そのメディアによって、ユーザーに何を伝え、ユーザーにどうなってもらいたいのかを常に考え頭を捻り、ひとつのメディアをつくっていっています。

現在運営しているWEBメディアは、現時点でもある一定のユーザーに対して強い影響力を持っていると感じています。それは滞在率を見ても明らかです。

CTRに関していえばおよそ80%以上を叩き出しているのもありますし、中には100%という素晴らしいコンテンツもあります。

つまり、私のWEBメディアを探して、訪問してくれるほとんどの方が私が頭をひねって考え出したコンテンツを隈なく読み進めてくれていると感じています。

該当メディアは、今はまだ、小さなメディアでしかないけれども、5年後、10年後を常に見据えてメディアをつくっていく事を心掛けています。

メディアの運営自体は順調ですから、やがて大きな華を咲かせるでしょう。それも近いうちに。

私がここで言った、細かい変化というのは、WEB全体の小さな動き、つまり仕様変更などの事です。

WEBメディアが向かっている方向性や流れは、わかっていますから、後はその流れにのって行けば良いだけなのですが、その大きな流れの途中にどうしても予測不可能な小さな動きや流れが訪れます。

メディアが大きくなればなるほど、その影響は受けやすくなり、けれどもメディアが進むべき方向性はわかっていますから、それに合わせて自信を持って大胆に行動していくことが大事になります。

メディア運営の経験が浅い人は、特に慎重に気を引き締めるべきだと思います。

今の動きは、進むべき方向の、全体の、ほんのわずかな変化にしか過ぎないということです。ですから自信を持って、自分のメディアを運営していってください。

テレワークについて

最近は仕事を始める前の習慣として、BOHEMIAN DAYSを書くことが多くなりました。

1日の終わりにと思ってはじめたのですが、案外仕事を始める前にBOHEMIAN DAYSを書いた方が、その後の頭の回転が早くなるのか、どうなのかはわかりませんが、勢いがつく気がします。

いうなれば仕事をする前の助走のような立ち位置でしょうか。基本的には息抜きの場として活用していますが、案外いろいろな活用方法があるのだと思います。

テレワークについて

私のような働く場所と、働く時間にとらわれない働き方をテレワークというようです。

遅まきながら、昨日知りました。

テレワークという言葉自体は、過去に聞いた事があったのですが、その意味は理解しておらず、多分同じようなことだろうなと思ってはいましたが、どうやら、テレワークというのだそうです。

「いうそうなのだそうです」というのは、私自身まだその言葉の意味をしっかりと調べていないからに他なりませんが、ネットで「テレワークとは」と検索すると、私の働き方にそっくりな文面が出てきますので、おそらくそうなのだと思います。

例えば、コトバンクに記されている「テレワーク(てれわーく)とは – コトバンク」も、細かいところには異論があるものの大体同じです。

一般社団法人日本テレワーク協会」なるものもあるのですね。

どうやらテレワークを一般化しようと思っているようですが、今の技術では多分難しいでしょうね。

本格的に導入してしまうと、様々なところに支障を来すと思います。

以前の記事でも書きましたが、組織で仕事を進めるのですから、やはり、最大限効率の良い働き方をするためには、同じ箱にいなくてなりません。

どんなに技術が進んだとしても、顔を突き合わせていなければ、細かい話やニュアンスは伝わらないでしょうし、短期的には効率が良い働き方とされても、長期的に見れば、様々な面で不具合が生じてくると思います。

また、大前提として、個々の能力が相当高い状態にないと、そうした働き方は不可能です。

大きな裁量も必要です。

いちいち確認するようなやり方では、全くダメで、個人で判断できるような仕組みの導入が必要になります。

そうして仕事をして、失敗した時の責任はどこにあるのかということも大きく関わってきます。

上司は部下の面倒をみることが、会社で働く以上に難しくなりますから、管理形態もかえないといけません。

ようするに、組織で働くには組織で働くなりの方法論があり、私のように働くにももちろん、それなりの方法論があり、両者は別物だということです。

気持ちの持ち方も違います。

結果に対する姿勢も違います。

責任の取り方も違います。

両者は似て非なるものなのです。

たぶん私は、他人から見れば物凄く謎な人間だと思います。

ホテルのラウンジやカフェなどの外出先で仕事をしていても、何をしているのか全く見当のつかない謎な存在だと思います。