君たちはどう生きるかを観てきました。
観たのは7月14日(金)に公開されてから、連休明けの7月18日(火)の朝イチ。朝9時頃からの上映です。
それでもほぼ、満席と言っていいくらいに人で混み合っていました。
ボクはジブリ作品とは思い出深く、実は、妻とのお付き合いもジブリ映画を観た時から始まっています。ちょうど「ハウルの動く城」が上映される時期にボクたちは付き合い始め、そこからボクたち2人の物語が始まったのです。
そんなきっかけとなった監督の映画をまた、妻と一緒に観てきました。
情報はすぐに拡散されてしまうからこそ急いでみる必要がある
本当に、事前に何も情報がない状態で映画を観たのは初めての体験で、今はネット社会。どんなに情報が伏せられていたとしても、今後どんどん情報が上がってくるであろうから、情報の出回っていない今のうちに観ておかないといけないと思い、なかばスケジュールを無理やり押し込むように急いでおさえて観てきたのです。
物語もどのようなものなのかもわからない。時代ものなのか、ファンタジーなのかもわからない。声優も誰だかわからない。むしろ、主題歌はあるのか?対象となる年齢はどこにあるのかもわからない。どのような雰囲気の絵なのかもわからない。わかっているのはポスターに書かれている一羽の「鳥」と「君たちはどう生きるか」というタイトル。そして、おそらく宮崎駿の最後の作品になるであろうという触れ込みだけ。
映画館に足を運ぶことが、一生に一度訪れるかどうかの貴重な体験となる
最初のワンシーンにどんな映像が映し出されるのか・・・どのような絵柄でストーリーが展開されるのか・・・始まる前の期待感はこれまでにないものだったように思います。
あの始まる前のどんな物語が紡ぎ出されるのかわからない高揚感はたぶん、他では味わえないであろうし、今後も訪れるかはわからない。もしかしたら一生に一度の貴重な体験になるかもしれない・・・。少なくとも、ここまで思いいれのある監督の作品でそれを経験できることは2度とない。
だからこそ、急いでスケジュールをおさえて、観てきたのです。
何せ、そんな貴重な体験を2,000円程度で経験できるのですから。
ここからはちょっとだけネタバレになりますので、完全真っ白の状態で映画を見たいという方は、ご覧になってから観るようにしてください。少しだけ内容がわかるような内容になってしまいますから。
大事なのは他人の意見に左右されないこと
実はこの記事を書いている現時点は7月20日で、アップするのはもう少し後になると思います。理由は、いろいろありますが、一番の理由は、この作品は、現在の情報が何もない状態で、映画館に足を運び楽しむことに意味があると思ったからです。
少しであろうとも、ボクがここで公開してしまっては楽しみが失われしまう。だから公開するのは避けてきました。
いくら情報を取らないようにしていても、人間、気になるものは見てしまいますから、できるだけ公開は控えようと思ったのです。
【ここからはネタバレ少し含みます】映画「君たちはどう生きるか」の意味するものは何か
そして、この作品については、内容云々というよりも感じたことを書いた方が早いと思います。
映画の内容は極力ネタバレになってしまいますので避けますし、映画を観てそれぞれが思うことがあると思いますが、ボクが感じたのは、おそらく宮崎駿の「最後の自伝」なのかなと思いました。
言ってしまえば「宮崎駿が自分で描く自伝」それを「物語」という形にした。
だからおそらくわからない、難解であると言われているのは当然のことで、本当のところは、その映像のひとつひとつの意味は宮崎駿監督ご本人にしかわからないと思います。
率直に言って、放り投げた言い方をしてしまえば自己満足の映画だし(もちろん商業映画ですからエンタメ要素はふんだんに含んでいる)、どこまでも宮崎監督ご本人が、自分が納得できるものを作りたかったんだと思います。
宮崎駿作品は全作品「自伝」である
宮崎駿監督の作品は、実はどの作品も大なり小なり「自伝」的な要素を含んでいるのですが(プロデューサーの鈴木敏夫さんが公表している)、ここまで「露骨」に「生きた姿」を物語として表現した作品は他にはないと思います。
君たちはどう生きるか?私はこう生きた。
これが、映画全体を通して伝えたかったことなのかなと思います。
そして「君たちはどう生きるか」という、なかば挑戦的なタイトルをつけることで、少し大げさに言えば、あとに続く、この現生で生き続けるものたちに、この世の行く末を託したのかなと思いました(この作品は観る人の立場によって、いろんな解釈の仕方ができるのも特徴だと思います)。
もちろんそれはスタジオジブリという会社に対してもメッセージを発していますし、世の中に対しても、宮崎駿のファンに対しても、あらゆる方に作品を通してメッセージを送っていると感じました。
「生きる意味」を問いかけていたと言ってもいいと思います。
珍しく、映画の要所要所にセルフオマージュのようなものが散りばめられていましたし、公表はされていませんが、ジョン・コナリーの著作「失われたものたちの本」から着想を得て、この映画を作ったというのも頷けます(多分この辺りは今後、劇場用パンフレットなどの販売を通じて明かされていくのだと思います)。
宮崎駿の影響を受けたものが色濃く表現されている自伝。そうしてみると、それぞれのシーンが意味のあるものとしてうつってきますし、ラスト近くのシーンの石の意味なども理解ができると思います(あまり言い過ぎてしまうと、ネタバレになってしまうので言えないところがこの作品の難しいところです)。
多分、わからない人にはわからないし、映画なんて、映画をみて観ること感じることは人それぞれですから、宮崎駿監督自身それでいいと思っているのだと思います(宮崎駿監督映画最後のお決まりの「アレ」がなかったのも何か意味があるのだと思います)。
宮崎駿としてはまだ生きているから、最後の「アレ」をつける必要はなく、物語はまだ続いていく、まだ続いているよという意味なのかもしれません。
でも、この作品が、「本当の意味での」宮崎駿の最後の作品になると思います。意識的か、無意識にかはわかりませんが、ひとつ長編アニメーションの映画監督として「ケリをつけた」と言ってもいいのだと思います。
本当に監督自身が、いろんなしがらみから解き放たれて好きなように作っている。そう感じましたから(もちろん商業映画ですから、楽しんで観れるようにはつくっていますが、だから、それが難解だと感じさせる要因の一つとなっていると思います)。
スタジオジブリの単独出資で製作されたことにも意味がある
あえてスポンサーをつけずにジブリの単独出資で踏み切ったのも、スポンサーがらみのいざこざに巻き込まれたくない。単独出資にすることで、宮崎駿の自由に作ってもらいたい。
だからこの映画は製作期間を含めて、プロデューサーである鈴木敏夫さんから宮崎駿監督への最後のプレゼント、と言ってもいいかもしれません。
そういう意味でも宮崎駿の「崎」の文字が「﨑」という「立」という名義になっているのだと思います。宮崎駿監督作品だけど、宮崎駿監督作品ではない。
今までのアニメーション作品とは別。これは宮崎駿の作品ではなくて、「宮崎駿」という人間を俯瞰して、自伝として物語に落とし込んだ「宮﨑駿」の作品だよと。
宮崎駿監督自身はおそらく亡くなるまで映画を作り続ける
もちろん、そして、たぶん、、、、おそらく宮崎駿監督自身は今後も創作活動に明け暮れると思います。引退しようとしても、引退はできない方ですから。
そして、だから現生に生き続ける限り、素晴らしい、新しいアニメーション作品を生み出していくと思います(長編か中編か短編かはわかりませんが・・・)。
だから、もしかしたらもう1作品か2作品ほど、アニメーション映画作品としてお目にかかれる機会があるかも知れません。
でも、ここまで素直に「宮崎駿」自身を表現した作品を作るのは「もうこれで終わりなんだな」と感じました。一つの区切りをつけたような作品だと感じたからです。
人として生きる時間が終わりに近づいていることを感じさせる作品
それは、最後の作品になると言われていた「風立ちぬ」でもありましたが、作品中に登場した何気ないキャラクターにもセリフとして言わせているように感じましたし(いろいろなキャラクターに心情を代弁させている)、もうこれ以上、以前のような作品は描けない、想像力の翼は折れてしまった。
そう言っているようにも感じました。
実際、70代後半から80代前半にかけての製作期間であの想像力は、ものすごいことだと思うのですが(冒頭のシーンの映像から何度もハッとした映像表現がありました。切羽詰まるようなあの表現は他のアニメでも観たことがありません。一体この1コマ1シーンにどれくらい時間と労力をかけたのだろうと思うほどでしたから)、何と言いますか、物語の要所要所で「出し切っている感」を感じたのです。
ボクには絞っても絞っても、どれだけ絞っても出てこないものを、無理やり絞り出しているようなクリエイターとしての苦しみが伝わってきたのです。だからちょっと痛々しく感じる部分もありました。
何せ、風立ちぬでカプローニ伯爵に言わせているように、「創造的人生の持ち時間は10年」ですから。
宮崎駿監督の場合はおそらく創造的人生の始まりは・・・1984年の「風の谷のナウシカ」。そこから1997年の「もののけ姫」あたりに当たるのかと思います。漫画版も入れると10年ちょい。
それがおそらく監督としての創造力のピークだったのだと思います。
その後の作品も素晴らしい作品を作っていますが、ピークはやはり「もののけ姫」であるように感じるのです。「風の谷のナウシカ」から一貫して抱きつづけていたテーマを最後に「もののけ姫」としてまとめ上げたような気がしますから。
その後も、良い作品を作り続けていることには変わりはないのですが、そこからは惰性というか、回を重ねるごとに、いろんなしがらみが大きくなった映画になってしまったように感じます。
正直「崖の上のポニョ」も面白くなかったし、「風立ちぬ」も面白くなかったですから。ギリギリ「ハウルの動く城」あたりまでかなと思います。
「君たちはどう生きるか」は、たぶん、監督自身に向けて作っている映画
また、宮崎駿監督作品は必ず、観てほしい誰かがいます。
崖の上のポニョは息子の五郎氏に向けて描き、千と千尋の神隠しは知人の10歳の女の子に向けて描くなど必ず対象とする身近な誰かがいて、たったひとりの観て欲しい人に向けて作っているのも大きな特徴です。
だから、誰に向けた映画?ということは宮崎駿監督の映画では、必ずいろんなところで言われますが「君たちはどう生きるか」はおそらく、「自分自身に向けて」おつくりになったのかなとボクはおもいました。
もちろん特定の「誰か」がいるのかもしれませんが、それでもなお、自分自身に向けて、自分が今心から楽しいと思える映画を作ったのだとおもいます。
そう思うと宮崎駿が宮「﨑」駿として、宮崎駿を物語にした。だから宮崎駿ではなく監督の名前が「宮﨑駿」(「立」つ方の崎になっている)ことの意味も自然とつながってくると思います。
監督にとって最高の贅沢であり、自分の人生を映画にするという最高に贅沢な制作期間7年間だったのだろうなと思います。
宮崎駿監督にとって非常に贅沢な7年間
プロデューサーである鈴木敏夫さんも、一度、宮崎駿に、周りを気にせずに、できるだけプロデューサーとしての自分の意見を挟まずに、自由に作らせてみたい・・・それが商業映画として「あたろう」と「あたるまい」が関係ない。
なぜならジブリの単独出資で作られた映画だから。スポンサーがいないから。
そんな確かな気概や、心意気を映画をみてひしひしと感じたのです。だから、この映画はまた鈴木敏夫プロデューサーからの挑戦状でもあったのかなぁと思いました。
商業的に成功しようが失敗しようが構わない。大きなお金が動く以上、はじめから失敗すると思って作ってはいないが、大きく成功するとも思っていない。
鈴木敏夫さんからすれば、この作品は今の世の中に対する挑戦状、アンチテーゼのようなもので、そのあたりで、宮崎駿と利害が一致したのだと思います。
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