「環境のせいにするな」とは、会社員時代に、直接的じゃないにしても間接的に良く言われていたものです。
要するに「環境のせいにするな」とは、自分が力が発揮できない理由を周りのせいにしてはいけないよという意味なのですが、私はかねてからこの言葉に疑問を思っています。
「いやいや、そうはいっても環境も大事ですよ」と私は思っています。
今回はメディアに触れて、少し疑問に思ったので、「環境のせいにするな」の考えについて少しお話ししていこうと思います。
「環境のせいにするな」という言葉の違和感
私は、この「環境のせいにするな」という言葉をきいたとき、一方では、「そうだよな」と解釈することもあれば、「そうじゃないよな」と解釈することもあります。
なんというか、状況などを深く考えずに「環境のせいにするな」という言葉を使っている人を見ると、痛々しく思えることがあります。ただ、なんでも一括りにまとめて「環境のせいにするな」というのは、やはり適切ではないと思うのです。
そもそも多くの場面で言われる「環境のせいにするな」とは所詮、非常に少数派である強者の論理であり、そこに弱者の意見は反映されていません。
仕事に限って言えば、上手く行く人、もしくは上手くいった人というのは、全体からみればほんのわずかな数であり、確率的に見れば非常に少数派のはずです。
そこには、偶然が重なり運良く大成できた人や、全体の流れや波にたまたま乗ったことで、偶然上手く行った人も含まれます。要するに確率論の問題であり、全体からみればごく一部の人の意見です。
その中でも、私が一番残念に思うのは、本当に、ただ運がよくて偶然上手く行った人の意見です。もちろん何かを成し遂げるには「偶然」や「運」の要素が大きいということは、否定することは出来ませんが、なかには、どう考えてもたまたま上手く行ったひとが存在します。
本当に、たまたま時代が味方しただけだったり、ただ通り道に立っていて、たまたま偶然が流れ込んできただけだったり、偶然の種類は様々ですが、共通して言えることは、自分から掴みにいった偶然ではなく、本当にたまたま行き当たった偶然だということです。
面白いことに、多くのメディアでは、そういう方を、よりもてはやす傾向があります。
なぜなら「稀」だからです。そして不思議なことに希少な意見ほど強い影響力をもちます。
そうした、少数派の意見というのはマスコミから見れば非常に希少価値が高いため、それを全体の枠に媒体などのメディアを通して私たちに触れるように、無理矢理投下されます。
そして、上手く行っている人、もしくは上手くいった人というのは、何かしらの「共通体験」をしているため、自身の経験と勝手にそれに結びつけて、「この人の言っていることはごもっともだ」という風に解釈します。
そのように、意見がどんどん同調し、やがてはそれが真理であるかのような流れになっていきます。
単純に「環境のせいにするな」という意見にすることに否定的な私自身も、なんとなく共通項をみつけ、「そうだよな」と、頷くこともありますからその影響力は絶大です。
ただ、ふと冷静になって考えてみると、多くの場合、言っていることはもっともだけれども、いささか単純化しすぎたり、一括りにしすぎたりしていないかと思ったりします。
私たちはメディアは常に本当のことを言っていると思いがちですが、メディアは真実を伝えているように見えて実は事実を歪曲して伝えています。
例えば番組を制作しているテレビ局の方に話を伺ったことがあるのですが、ドキュメンタリー番組を制作するにあたって、面白くする為に、基本的には、わざと困難を描き、提示された困難に対して悩みもがき立ち向かっている姿をみせ、最後には困難に打ち勝つ、または困難から何かを得て、さらに高みに望んでいくという構成をされるそうです。
もちろん事実を淡々と描くよりも、この方がストーリー展開として引きつけるものがありますし、視聴者からすれば面白くなります。結果的に面白ければ、数字を取ることに繋がりますから、そのように番組が展開されます。
もっと言えば数多くの伝記などもこのような手法がとられています。映画でもドラマでもそうですよね。
そして、さらに複雑にしているのが、困難というのは誰もが持っている共通体験であり、それを見ている視聴者は、困難に立ち向かっている人に無理矢理自分を重ね合わせます。物語の主人公と共通体験を持ち、共感をすることで、自分をそこに投影するわけですからだから、自然に引き込まれ面白くなっていくのです。
わかりやすくシンプルな言葉というのは、非常に心にずしんと来るものがあり、そこから勝手に何かを連想し、自分の体験と結びつけ、共感し、やがてそれが真理となっていき、やっぱり上手く言っている人だったり、成功者の言うことは違うよな・・・となっていきます。
ですが、そこにはやはり無理があるよな・・・と思うのです。
環境の影響は生物に多大なる影響を与える真理
例えば、生物全般に言えると思うのですが、自然界には環境によって育つ生物と育たない生物が存在します。草木をみればそれは明らかだし、人間以外の動物をみても環境に適応できないものは、やがて死に絶えていきます。
人間だけが違うというのはいささか傲慢な意見であり、やはりものごとの本質をあらわしていないと思うのです。もちろん人間は他の生物と違って、頭を使うことによって変革を起こしたり、気に入らなかったら場所を移動することも出来ます。
ですが、多くの場合で使われる「環境のせいにするな」とは、「今ある環境の中で」ということを前提として使われていると思います。
そこで私は思うのです。ビジネスでもそうですが、環境(市場)が悪ければどんなに頑張っても成果を掴むことが出来ませんよと。
そもそも「今ある環境の中で」の時点でこの論理は、破綻していると思います。
ここまで言っておいて、では、なぜ「環境のせいにするな」という言葉にひとすじの理解を示しているのかというと、一方で人を統率する為にはそうした、単純化した影響力の強い言葉が必要な時もあるからです。
人間を含め、生物は多種多様ですから、組織の中で生きていくには、何かしらの画一性が求められます。同じ方向を向いていないと本来の力が発揮できないことがあります。だから、組織を統率する上で、鼓舞する為にはそう言う言葉が必要な時もあるのです。
また「環境のせいにするな」ということで、自分の行いを振り返ることも出来ます。本当に自分のやっていること、やってきたことは正しかったのかなど振り返ることに繋がるからです。
全てが全て「環境のせいにするな」に、あてはまるわけではありませんが、やっぱりこの言葉が大事だと思うこともあるのです。
ただし私が思うに、この言葉を使っていいのは、きちんとこの言葉の背景を知り、意味を理解している人だけだと思います。
皆一様に、「環境のせいにしては行けない」という言葉を使っている「今の環境」には、やはり違和感しか残りません。
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