ふと「豊かさ」とは何だろうかと考える機会がありました。
ほんの10年前、20年前と比べると、僕たちの生活は、疑う余地なく豊かになっている。
一方で、社会一般を眺めてみて、心は年々貧しくなっている(僕を含め)。そう感じる機会があったからです。
そこで、今一度「豊かさ」について整理して考えてみようと思い至ったのです。
「豊かさ」の定義について
最近、妻と「豊かさってなんだろうね」という会話をしました。
なぜそんな会話になったのかは、ここでは割愛しますが、僕たちの中ではいったん「豊かさ」とは「余裕」であると定義づけました。
そう思うに至った理由などは下記でお伝えします。
お金があっても豊かにはなれない
人はお金があると豊かになれると思い込んでいます。
けれども、実は「お金」は豊かさを生みません。
間接的には豊かになれると思いますが、直接的な豊かさにはつながらない。僕はそう結論づけています。
例えば、お金がたくさんある方は僕の周りにはそれなりにいますが、「豊かであるか」と問われるとそうではない人ばかりだと思います。
もちろん僕も含めてです。つまり僕自身「豊かではない」と感じています。
不思議なことに世間一般の認識と違い、一概に「お金の所有量=豊かさ」とはならない。
じゃあ「豊かさ」とは何だろうかと考えた時に、僕と妻の意見は一致して、まずは前提条件として、それなりに自由に使える「余裕」のある「お金を所有している」ことであると感じたのです。
豊かになるために、別に「お金持ち」である必要はないのです。
決して、「お金持ち=豊かさ」になることはなく、そこに「余裕」言い換えれば「ゆとり」や「余白」がないと豊かではないし、豊かにはなれない。
これは何も金銭的なこと以外でも「精神的」「時間的」な「ゆとり」や「余白」を含めた総合的な「余裕」のことです。
生きる上での「懐の深さ」と表現してもいいと思います。
また、どんなにお金を手にしても、誰かを憎んだり、誰かを恨んだり、何かに怯えていたりすると余裕を失います。
そうなると「豊か」にはなれないし、手元の数字が大きくなろうと豊かさを実感できない。
このように、豊かさ=余裕といった視点でとらえてみると、僕の周りには「豊か」ではない人たちがたくさんいます。
一方で、「お金はそこまで所有していない」けど、豊かな人もいます。
例えば、年に1、2回の家族での旅行を楽しみにして生活している人や、仕事の量をセーブしているひと。
そうした人の方がただお金を所有している人よりも「豊かだな」・・・そう感じることが多いです。
古代中国の思想家である老子の言葉で、「足るを知る者は富む」という格言がありますが、まさしくそれを実行している人。
老子のいうように「足るを知る」生活を送っている人は、総合的に「豊か」である人が多いと感じています。
でも現実的にはお金がないと「余裕」は生まれません。資本主義の社会では、生きるためにお金は必要ですから。だから、まずは前提条件として、それなりに自由に使える余裕のあるお金を所有していることと定義づけました。
自由に使える時間があっても豊かにはなれない
いつか時間ができたら「あれをしよう」「これをしよう」、そんなことをあなたもこれまでたくさん考えてきたかと思います。
でもいざ、まとまった休日や時間を確保できたとして、「時間ができたらしたかったこと」を実行できた方はどれくらいいるでしょうか。
たぶん90%以上の人が、時間ができても、「あれ」や「それ」を実行しなかったはずです。
それよりも「それなりに忙しい時」の方が、「あれ」や「それ」を実行していたはずです。
僕の感覚では、たぶん90%以上の人は、せっかく時間ができても手元のスマホに手を伸ばしてダラダラとネットニュースを追いかけてみたり、SNSを眺めてみたり、ネトフリやアマプラサーフィンしてみたり、ゲームをして過ごしてしまうと思います(それが悪いというわけではありません)。
このように、時間はあるけれども、「やりたかったことをしない」「できない」これは果たして豊かと言えるのだろうかと考えると、答えはNO、そうではないと思います。
やはりここでも自由に使える時間があるだけではなく、実行するに至る懐の深さだったり「余裕」があるからこそ、豊かさを感じられるということを示していると言えると思います。
たくさんの仕事があっても豊かになれない
仕事がたくさんある。
これは大変、喜ばしいことです。社会との関係を保つために仕事の存在は欠かせませんから、充足感を得るためには仕事=社会との関わりが必要で、直接的、または間接的にでも「自分は社会の役に立っている」という実感が必要になります。
でも仕事ばかりしていると、いつの間にか「心労」が重なります。
それも気がつかないうちにじわじわと進行します。恐ろしいことに、自分が思いもよらないところで、実感をともなわない形でじわじわと進行するのです。
そしてそれは、自分一人だけの問題ではなく、家族にもその範囲が及んでいきます。
実は、数年前の僕がまさしくそれで、気がつけば仕事ばかりしていました。
妻にも指摘されましたが、まさしく仕事づけの人間だったのです。
手元の数字は増えていくのに豊かではない。そう感じていました。何となくではあるものの、豊かにはなれない。そのギャップに悩み、もがき、苦しんでいました。
意味がわからないのです。豊かだと言う実感がまるでないのです。
この頃の僕はよくわからない感情を常に抱いていました。
その反動か、パッと仕事をするのをやめてみた時期もあります。それこそ全てを手放しました。
思い切って真逆に振り切ってみたのです。
でも、仕事を辞めても「豊かさ」は実感できず、そればかりか「豊か」ではなくなり「幸せ」から遠のいてきました。
手元の数字の話ではありません。数字は僕がいなくても膨らんでいきましたから。そうした仕組みをきちんと築いてからやめました。でも・・・かえって精神的に貧しくなっていったのです。その頃、会った友人からは死んだ魚のような目をしていると言われたこともあります。
その時、僕はハッとしたことを今でも覚えています。
僕自身は仕事をすることで一生懸命に、社会とのつながりを確保していたのだと気がつかされたのです。
仕事をし「誰かの役に立っている」ということが精神的な「豊かさ」をうんでいたことに気がついたのです。
そして同時に、こうも思いました。本当の意味で豊かになるためには、どんなにお金を所有していようが社会とのつながりを断ってしまってはならない。いかなる時でも社会との関わりをしっかりと保ち続けることを考えなければならない。
そう思ったのです。
人は他人によって幸せになる(嘘偽りなく)
少し難しい話をします。
哲学的な問いにはなりますが、なぜ仕事をしない状態でも豊かにはなれないのかと考えたことがあります(一般的にはリタイアの状態を連想してください)。
実際リアルに体験してみると、豊かになれないどころか、心はどんどん貧しく、不幸せになっていくのです。
おそらく、これには、人が人として生まれてから、生来、人は、自分ではない誰かと関わりを持って生きてきたことが関係しているのではないかと思っています。
古今東西、人は人と関わることでさまざまな「知恵」を手に入れ「危険」を回避してきた。人と対峙し物語として伝えたり、時に格言や迷信、噂話などのテイをなして伝えてきた。
だからどんなにテクノロジーが発展しようが、遺伝子レベルで人は孤独でいることに慣れていない。そんな気がしたのです。自分や家族の身を守るためにも「誰か」との関わりは必要だと言うことです。
また、今の時代は、仕事を通して、間接的に社会とのつながりをたもっている。それを断つことは、生物的には生きていても、社会的には「死」を意味するのではないか。
つまり、人として生まれた以上、自分の存在価値を認められない、真に社会から孤独になった時に、「死」が訪れるということです。
そうした「性(さが)」からは逃れることはできないのではないかと思ったのです。
あまり人と関わりたくなかったり、人と関わると面倒なことが多いからネットの仕事を選んだと言う人は多いと思いますが(例えばアフィリエイトを選ぶ人はそういう人が多い)、いざ別に深く関わらなくてもビジネスが回る状態になってみると、途端に人恋しくなってしまうんです。
これは僕だけではなく、誰もがそうだと感じます。
どんなにお金持ちになろうが、人は他人に何かを提供し時に自分の実力を示すような形になりながらも、結果として自分自身が幸せになるのではないでしょうか。
単純に承認欲求という簡単な言葉では片付けられません。
それ以上の何か、自分の存在意義を示す何かです。
ほどほどな豊かさをベースにする
けれども、仕事を通して社会とつながることは必要だけれども、やはり、仕事ばかりでは豊かになれない。
じゃあ、どうすればいいのか。
そこで僕は豊かさを得るためには何事も「ほどほどに」という仮説を立てました。
ほどほどに仕事をし、ほどほどに社会とつながり、ほどほどに夢中になり、ほどほどに余裕のある生活。
それが「豊かさ」ではないかと思ったのです。
それからというものの、(難しいですが)僕は夢中になったり熱中するのではなく、どこか仕事と距離を置いて生きることを意識するようになりました。
どこか俯瞰して、物事を捉えるようになったと言ってもいいかもしれません。
そして今はその「ほどほど」を大切にしています。
・・・とは言いつつ、僕は一点集中型の性格でもあるので、放っておくとその部分が暴走してしまい夢中になってしまうのでそれらをコントロールするには苦労しています。
インターネットがもたらしたもの
あまり知られていませんが、インターネットはもとを辿れば軍事利用で生み出されました。
核もそうですよね。戦時下にロシア(旧:ソ連)とアメリカが競い、生まれ、そして現代では「原子力発電」と言う形で私たちに多大なる恩恵をもたらしてくれています。
火力発電や風力発電、水力発電、太陽光発電など発電方法にはたくさんありますが、他の発電方法と比べるとエネルギー効率が桁違いに違うのです。
これらは戦争によって他国と競争することにより、もとい命懸けの戦いになることで生み出された副産物です(調べてみると意外とそのようなものが多いことに驚きます。人類にとっては平時よりも、有事の方が変化が激しいと言うことです)。
戦争はいけませんが、実際は戦争がもたらしてくれるもの(といったら語弊がありますが)もあるのです。もちろん戦争は良くありませんし、あってはならないものだと思いますし、愚かな行為だと思います。
ただ、歴史的に物事を観察し、別の側面から捉えると「そういった側面もある」といっているだけですので勘違いなさらないでください。
ともかく(話がそれましたが)インターネットが世の中に普及して、何が起きたのかというと「情報」がより迅速に広まるようになった。
これは、同時にこれまで以上に世の中の流れが早くなったことを意味します。
情報の伝達速度が上がると、時間を短縮することができますから。
特に現代は通信が発達していますから、一度ネットの世界に飛び込めば(感覚的には)誰もが半径10メートル以内にいるようなもののように感じます。
ただ「情報」の「速度」はもちろんですが、一方で、その背景にあるものにはあまり目を向けられることはありません。
それはインターネットが普及したことによって、人々はある意味、平等に「比較」できるようになったということです。
僕は一般社会に生きる人々が、誰もと「比較」できる状態になったことが「インターネットの『本質』」だと思っています。
ビルゲイツは「インターネットによって世界が合理的になる未来」を想像していましたが、実際は比較し、比較される社会を生み出してしまったのだと思っています。
本当は普段の生活をする上で「必要のない概念」を取り込むことができるようになり、また知ってかしらでか、誰もが容易にその世界に取り込まれるようになってしまった。
タップひとつで「簡単に他の誰かと比較できる、比較される社会になった」ことが現代社会なのです(そしてこれが様々な場面で弊害を生んでいます)。
本来であれば「足るを知る」ことで生活できていたのに、知らないでいいもの、けれども望んでいるもの(欲求)に誰もが簡単にアクセスできるようになってしまった。
それに伴い他人と「比較」することを覚えてしまった。
スマートフォンが普及するまでは、それはパソコンの前に限られていたため限定的でしたが、今ではどこにいても親指一つでフリック操作すればインターネットという「比較社会」に飛び込んでいくことができます。
これまでは、ある意味、パソコンの電源をつける。立ち上げる。待つ。という面倒な作業が障壁になっていたのですが、スマートフォンの普及により、それが取っ払われてしまった。
それも朝起きてから夜寝るまで常に手元に置いている6インチほどの端末の画面を通して。
この差は小さいようでいて、とても大きいのです。
「比較」により基準値が上がってしまった
ではインターネットが登場したことによる「比較」によって、どのように社会が変わってしまったのか。
たくさんありますが、いくつか挙げると下記の通りにまとめられると思います。
・自尊心が低下するようになった=本来であれば限定された「村」社会から対象が「日本全体」になった
・不必要な競争心が生まれた=本来競走する必要のない相手と思いがけず競走するようになった
・嫉妬や妬みが生まれるようになった=本来「村」社会に向けた嫉妬や妬みの対象が「日本全体」になった
・自己成長が阻害されるようになった=本来比較する必要のない相手と比較できしまうことにより簡単に諦めるようになった
・ストレスが掛かるようになった=同世代の誰かと比べられるなどストレスがかかるようになった
・不安が増大するようになった=ネガティブな情報が入り込みやすくなった
・基準値が非現実的なものとなった=十分に豊かなのに「豊かさの基準値」が可視化し求めるレベルが上がった
ひとつひとつ詳細について説明するのはここでは避けますが、要は他人と比較できるようになったことで「基準値」が上がってしまった。
例えば、今までは港区界隈だけの話だった内容の会話が、日本の郊外のど田舎でも受け取れるようになってしまった。
そこにはもちろん嘘も本当も含まれますが、いずれかの対象と比べることが容易になってしまった。
SNSなんかはその極地だと思います。
全く関係のない人と繋がることができる一方で、人の温度のようなものがなくなり、嫉妬が生まれ、攻撃的になった。もともとは居酒屋のような限られた場所で話されていた内容が、インターネットを通して公共の場に伝播され、内容そのものさえもが残るようになった。
残念ながらインターネットは「合理的な世界」ではなく、価値を比較し比較される「愚かな社会」を作ってしまったように感じます。
また、ビルゲイツはインターネットのことを「クレイジーな人間が仲間を見つける手助けをしただけ」と揶揄していますが、僕もそのように思うことがあります。
>>>インターネットは「世界を合理的にする」と思ったら「クレイジーな人間」が仲間を見つける手助けをしただけ
自分の基準を持つ
いろいろと伝えてきたし、長くなりましたが、僕がこの文章で伝えたいことはひとつです。
それは「自分の基準をもつ」ことの大切さです。
現代社会は「自分の基準」を持たないと、途端に生きていくのに「息苦しくなってしまう」社会になってしまう。
常に、そして手軽にインターネットと繋がれる社会というのは、一歩その世界に飛び込みアクセスすると、知って知らでか比較し、比較されてしまいます。
それを、知らなければ
・自尊心が低下することはなかったのに
・競争心を持つことがなかったのに
・嫉妬と妬みを持つことはなかったのに
・ストレスがかからなかったのに
・不安なんて持たなかったのに
・基準値が現実的なままだったのに
それを、知ってしまったがために、本来必要なかったものが、必要であると勘違いしてしまったり、それがないと価値がないと思い込んでしまったりしてしまうのです。
だからこそ有象無象入り混じるネット社会から身を守るためにも、老子のいうように「足るを知るものは富む」、この考え方を大切にしていかなければなりません。
自分の器以上のものを取り込んでしまい、比較し、また比較され、劣等感に苛まれてしまうことほど愚かなことはありません。
ネットの情報は見る人が利をもたらす情報もたくさん含まれていますが、その裏には必ず、情報操作があります。
つまりいずれの情報も、最終的に業者が儲かるようにできています。それこそ20年前は、本当にユーザーのことを思う中立的な情報が数多くありましたが、今はほとんどそうしたニュートラルな情報を見かけません。よく言われるように、市場が熱狂状態にある場合、詐欺の発生率と複雑性が急激に増す、だから少なくとも今のネット社会は健全ではありません。
20年ほどこの業界を観察していて思いますが、コロナ禍以降はそれが顕著に表れています。
また、最近は、会社組織の発信する情報にリーチしやすい仕組みになっており、情報の偏りなどが顕著に表れていると思います。
こんなことを言うと「Googleが掲げる10の事実」といった理念を引っ張り出してきて「いやいや、Googleはこう言っているし」などと言う人がいますが、少なくとも今のGoogleでは、「ウェブ上の民主主義は機能していない」し、「悪事を働かなくてもお金は稼げる」と思っていません。
言っていることとやっていることが完全に伴っていないのです。
それらは完全に過去のものです。実際は、情報の操作をしまくっているし、情報の偏りを感じるし、特定の業界に肩入れしまくっています。
Googleが掲げる10の事実は、あくまで理想を掲げているだけで、それは過去のもの。スローガンのように感じます。
ものすごく乱暴に言い換えて仕舞えば、ネットなんて壮大なステマ天国です。
この意識を常に持っていないと簡単に情報に操作され、疲れてしまいます。
今、疲れてしまっている方は、自分の基準をしっかりと持つようにしてください。
ある程度様々な経験を持たないとこれは難しいと思いますが、経験を通して、しっかりと自分の基準を確立していくことをお勧めします。
ちなみにこんなに長い文章もAIによる要約で下記のように表現できてしまいます。
この文章は、現代における「豊かさ」についての考察を述べています。著者は豊かさを「余裕」と捉え、単にお金や時間があるだけでは豊かさを感じられないとしています。お金は必要な要素ですが、直接的な豊かさにはつながらず、精神的・時間的な余裕が欠かせないと指摘しています。また、インターネットの普及により人々は他者と簡単に比較できるようになり、その結果として自尊心の低下や不必要な競争、嫉妬が生まれると述べています。最終的に、「自分の基準」を持つことが、現代社会での精神的な豊かさを保つ鍵であると結論付けています。
言いたいことはこんなとこです。
【意味】足るを知るものは富む
・自分の分をわきまえてそれ以上のものを求めないこと
・分相応のところで満足すること
・何事に対しても、“満足する”という意識を持つことで、精神的に豊かになり、幸せな気持ちで生きていけること