最近、とある「無名の映画」を観たのですが、とても考えさせられるものがありました。
ドキュメンタリー方式の映画だったのですが、なんというか、心打たれるものがあったのです。
実は、同じ映画を、数年前にも勧められて観たのですが、その時は特別なにも感じることはありませんでした。
「何も感じることはない」というと語弊がありますが、同じ映画を観て、今回味わったような「特別な感情」を抱くことはありませんでした。
この映画を観たのが「コロナ前」だったということもあり、もしかしたら「コロナ」というものがボクの考えを根本的に変えたのかもしれません。
ボクが今回観た映画のあらすじを簡単に説明すると、ざっくりと
不慮の事故に遭い体が不自由になった方のお話で、引きこもり生活、けれども、とある人物との出会いがきっかけとなり、その方が長年抱いていた夢を叶えるために仲間を募りアメリカに行くという内容の映画になります。
つまり車椅子での生活を余儀なくされ「夢」をあきらめていた方が、長年思い描いていた「アメリカ旅行という夢を叶える」という内容の映画と言っていいと思います。
言葉にしてまとめて仕舞えばただそれだけ、ということになるのですが、今のボクが観ていて非常に考えさせられるものがあったんです。
物語は、ふたりの出会いからはじまります。
事故がなければ、普段通りの生活が送れていて、「アメリカ旅行」というものも「夢」ではない。
お金と時間さえあれば、すぐにでもいってこれるとても現実的な「夢」です。
けれども事故により体の自由が利かなくなり、一人で生活するのもままならない状況に追い込まれてしまい「アメリカ旅行」が夢になってしまった・・・そんなあらすじで物語は始まります。
排便をするのも一人でできない、手足も自由に動かせない、事故でそんな障害を負ってしまったのです。
一方で、普段通りの生活をしている人がいて、人生を楽しんでいる人がいる・・・事故にあった当事者としては、どうしてもことあるごとに不自由になってしまった自分と「比較」してしまったり「その事故さえなければ・・・」という感情に襲われてしまいます。
一般的に「普通」と思われていることが自分にとっては「普通」ではないという現実。そのギャップが長年、その方の人生を苦しめ続けることになります。
それが数十年間も続いているわけですから、それは考え方も一般的なものとは大きくかけ離れていくと思います。言葉が言葉としての意味を持たない。あるのは目の前にある現実だけ。そんな状態になっていくと思います。
事故前の生活が華やかであればあるほど、それは「受け入れ難い現実」として目の前に立ちはだかり「言葉にならない感情」として現実的な色を濃くしていきます。
ことあるごとに現実を突きつけられ「生きる力」を奪っていく。それは想像するに難しい事ではありません。
でもそんな方にも一筋の「希望」があり、それが「夢」つまりは「アメリカで思い描く旅をする」ことでした。
そしてたまたま出会った人物との出会いがきっかけとなり、また仲間の励ましもあり、夢を実現するために「アメリカに行く」。
映画のあらすじを語って仕舞えばこれだけ。でも、なんというか考えさせられるものがありました。
多分、それはボクが歳を重ねたからこそ、わかる「味わい」なのかもしれません。
今よりも若い時には感じることのできなかった深い部分での人の「感情」を理解できるようになったと言っても良いと思います。
それはボクが歳を取り、「人生の持ち時間」を意識するようになったからなのかもしれません。
人は人生のどれくらいの時間を確かなものとして生きられるのだろう
ボクはそんな映画を見ていて、こう思いました。
「人は与えられた人生のうち、どれくらいの時間を自分のものとして生きられるのだろう」と。
その方がアメリカを旅したのはたったの10日間。
でも確実にその方の「人生」を生きていた。
そう感じたんです。
期間で見ればたったの10日間かもしれないけれども、その10日間に、その方の人生が、生きる意味がぎゅっと押し込められていた。そして、その10日間をつくるために、これまでのさまざまな期間を過ごしてきた。
なぜか、映画を観ていてそう感じました。
他の方からすれば、もしかしたらその10日間は季節が移り変わるくらいのなんの変哲もない10日間なのかもしれない。でも、確実に、そして間違いなくその方にとっての10日間は「生きる」という意味で何ものにも変え難い、素晴らしき「人生を生きる期間」だったように思います。
つまりその方の生きる意味は「たった10日間」にあったのかもしれない。
そんなことを感じたんです。
そんなことを考えながら見ていたら、気がつけば、ところどころで涙を流していました。
例えば人生が80年であろうと、誰もがみな、その80年の期間を必ずしも「生きている」わけではない・・・そう思います。
一人の人が生きる期間を80年として計算すると、80×365日で、およそ29,200日。これが「人生の持ち時間」です。
29,200日という与えられた期間の中で人は悩み、苦しみ、時に希望を見出し、明るい未来を見据えて力の限りを尽くします。
なかには何十年も理不尽な期間に耐え、老後に楽しみをとっておく先送りの人生を選択される方もいらっしゃるでしょうし、一方で早いうちからチャンスを掴み充実した毎日を楽しむ方もいらっしゃると思います。
もちろんどちらが良い悪いというわけではありません。
それは「生き方」の問題になりますから、良いも悪いもないと思います。
ただ、真に「生きる」ということや、与えられた期間の中で「自分の人生を楽しむ」ことを考えた場合、その時間が、例えたったの10日であっても「生きる」「本来の自分でいられる」そう思えることは幸せなことなんだなと感じたんです。
意味のない29,200日をダラダラと過ごすよりも、「意味ある10日間」の方がよっぽど素敵だなとボクはそう感じました。
ボクは、今、ある意味自分の生きている時間のほとんどを「自分の時間」として過ごすことができています。
もちろん、ボクも仕事をしているし、妻や子供もいますから全ての時間を「自分の時間」にあてることはできません。
でも、ボクが手がけているこの仕事は、「仕事」でもありますがとても楽しみながらやっていることもあり、だからこそ「遊び」のようなものととらえることも出来て、その2つに明確な境界線がない、だからこそ「自分の時間」を生きることができていると言い切ることができます。
特にスクール事業は、とても楽しくて、日々変わって行かれる方を見るたびに、変化をしていくお姿を見るたびに、ボクは「生きる意味」を見出しています。
些細なことだけれども、ボクのこれまでの経験を通して、お力になれたら。そんなことで始めたスクール事業ですが、これがとても楽しく、日々充実した日々を過ごさせていただいています。
だから「仕事が遊びで、遊びが仕事」と冗談のように言っているわけですが、実は、たとえ「自分の時間」を手に入れたとしても、そこに何か「夢」であるとか「生きる目的」のようなものがないと、途端にダラダラと「時間だけを消費する生活」になっていってしまいます。
なぜこのようなことが言えるのかというと、ボクは2021年にそれを経験したからです。
ボクは2021年に、ダラダラと過ごす期間を作ってみましたが、正直耐え難いものでした。
「何もすることがない」そして「何の目的を持たない」、そんな人生がこんなにも退屈で、暇で、生きる力を奪っていくものなんだなと感じました。
そのころあった友人に話を聞くと「死んだ魚のような、やる気のない目をしていた」とはっきりと言われましたから。今思えばボクは「絶望」していたのかもしれません。
目指していたところに、何もなかったかのような。宝物を目指してそれを手に入れたけれども、それに何の意味もなかったかのような・・・そんな気持ちです。
人は収入ありきで「仕事のない生活」を目指しますが、例え収入があったとしても仕事のない生活ほど、暇でいて怠惰な日々はありません。
不思議なもので、仕事のない生活を送ると、途端に人生に価値を見出せなくなります。
趣味に興じても良いのかもしれませんが、趣味だけで生きられる人は、趣味を生きる目的として楽しむことができる人は、そんなに多くはないのではないかと感じます。
例えば、たとえどれだけテレビゲームが好きだったとして、24時間飽きずにテレビゲームばかりをやっていられるなんてできないはずです。よっぽどクレイジーと言って良いくらいの「好き」でない限り。
趣味は、暇な時間を見つけて興じるからこそ楽しいのであり「人生の持ち時間」全てを趣味に使えるとなると、また話は別になってくるのです。
どんなに好きなことだったとしても、そこによっぽどの「熱量」がないと継続することなんてできませんから。
ボクはそれを経験したので、仕事をするという道を選びました。
じゃあ何をしようかと考えた結果、今の仕事を選びました。これまでの経験がボクと関わることで何かいい出会いのきっかけになればいいな、そんなことを願って。
そんな経験をしたからこそ、どこか自分の人生と重ねることができて、今回の映画に感動を覚えたのかもしれません。
人生とは何かを語ることなんて壮大すぎて、今のボクにはできませんが、それでも「与えられた期間ではない」そう言い切ることはできます。
29,200日という、神様から与えられた期間よりも、それがたったの「10日間」でも「5日間」であっても「1日」であったとしても、そこに「生きる意味」を見出せるのであれば、それがその人にとっての人生である。
何となく、そんなふうに思います。
不思議なものです。
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